夜の街を歩く足取りは、
いつもより少し重く感じられた。

残業を終えた彼女の肩には、
目に見えない疲れが積もっている。

視線の先、
小さな木の看板が、
暖かな灯りで浮かび上がっていた。

ガラス越しに見える店内は、
柔らかな明かりに包まれている。

（扉を開ける音）
小さなベルが鳴り、
コーヒーの香りがふわりと迎えた。

カウンターの向こうには、
白髪の混じる黒髪を
後ろで結ったマスターが
静かに立っている。

黒いベストと丸眼鏡、
落ち着いた微笑みが、
どこか懐かしさを感じさせた。

（穏やかに）
「いらっしゃいませ。
お好きな席へどうぞ。」

（戸惑いながら）
「……あ、はい。
ブレンドをお願いします。」

店内は静かで、
外の喧騒が遠くなるように感じられた。

豆を挽く音が、
規則正しく響く。

湯気が立ち、
香ばしい香りが店内に広がっていった。

（やさしく）
「お疲れのようですね。」

（小さく）
「……わかりますか？」

（穏やかに）
「ええ。
たいてい、
そういう方は
最初に“ブレンド”を
頼まれますよ。」

彼女は小さく笑ってから、
カップを両手で包み込んだ。

（ゆっくり）
「今日は、
どんな一日でしたか？」

（ためらいながら）
「人に疲れました。
上司が理不尽で、
言い返せなくて……」

言葉の端に、
自分自身を責める気持ちが
にじんでいる。

（しばらく間）
「人の顔色を気にしてしまうと、
自分の色が薄くなりますからね。」

マスターはそっと
テーブルの向こうで微笑んだ。

（やわらかく）
「でもね、
それは優しさの証拠でも
あるんですよ。」

梓がコーヒーを口に運ぶと、
その苦味が静かに広がった。

（静かに）
「弱さを知っている人は、
他人の痛みも感じられます。
だからこそ、
優しいんです。」

（戸惑い混じりに）
「でも、
私……自分を責めてしまうんです。
どうしても、
私が悪いのかなって。」

（少し考えて）
「それは、
あなたが自分に
厳しいからかもしれません。
頑張る人ほど、
自分に求めるものが
大きくなりますから。」

マスターは優しく語り、
カップをそっと
差し出した。

（静かに語るように）
「人はね、
コーヒーみたいなものですよ。
苦いままでも、
いい香りを残せる。」

（もう少しゆっくりめに、
落ち着いた声で）
「苦さがあるからこそ、
後味に甘さが宿ることもある。
人の心も同じで、
苦しい経験があるから、
誰かの痛みに寄り添えるんです。
あなたが今
感じている重さは、
いつか
誰かの支えに
なりますよ。」

彼女の瞳が少しうるみ、
顔の力が抜けていくのが見える。

（やさしく）
「たまには、
自分を甘やかす時間を作ってください。
仕事での役割ばかりでなく、
あなた自身が
“それでいい”
と思える時間を。」

言葉は押しつけがましくなく、
ただ静かに彼女の胸に落ちていった。

カップの中のコーヒーは、
最初は苦く、
しかし飲み進めるうちに
ほのかな甘みが残る。

（小さく笑って）
「お味はいかがでしたか？」

（微笑んで）
「とても……おいしかったです。」

店を出ると、
夜風がやわらかく頬をなでた。

歩道には、
灯りが二つ並んで揺れている。

（小さく）
「……また来ます。」

口の中に残る
コーヒーの香りが、
ゆっくりと彼女の胸を満たしていった。

夜空を見上げると、
雲の切れ間に二つの星が
寄り添って輝いている。

（遠くから、穏やかに）
「おやすみなさい。
今夜はよく眠れますように。」

小さなベルの音が遠ざかり、
店の扉は静かに閉まった。

喫茶ふたつ星。
苦みの奥に、
じんわりとやさしさが残る夜の味。